太陽には及ばない

美の本質とはなにか、健康である。本来比較されうるものではなく、比較された美は本質ではない。では健康とはなにか、死から遠くに位置する状態のことである。

 

エロスとはなにか、生への執着を喚起させるもの、そのすべてである。ならば生とは、死ではない状態のことである。

 

イギリスの片田舎にて。テツ

生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。

人は、死から逃れるために生きている。
逃れるとは、遠ざかる、あるいは遠ざける行動である。

何も知らない、何の価値観もないはすまの赤ん坊でさえ、乳を吸い、痛みを感じると泣く。生まれたとき、生を得たその瞬間から、死を回避するよう設定されているからだ。

赤ん坊が成長して、認知、感情、価値観、が芽生えると、やはりまた死から逃れようとする。仮に死から逃れることを放棄した場合、自ら進んで死ぬ。

死から遠ざかるためには、生命維持に必要な食う寝るは必須であり、物理的な痛みを避けることも必須である。

死を遠ざけるためには、死を認識しないことが重要である。なぜなら、認識しない物事に対しては何の感情も湧かないからだ。これが、生きる目的である。何かに熱中、あるいは価値観に沿っていきるのは、不可避の死を意識から遠ざけるためである。

死から逃れるもう1つの手段があった。それは、子供をつくることである。自身の半分を寿命から一時逃れされるのだ。ただ、これを死から逃れる手段とみなせるかは、人による。子供をつくり、自己を死なせないことに成功した、と意識的にしろ赤ん坊のような無意識的にしろ思い込める、あるいみなせるかは、人による。そうでない場合は、それを上回る何かをもって、死を認識しないことが必要になる。

人に害なす者も、死から逃れるすべとして、人を貶め、殺めているに過ぎない。
善とはなにか、それは人にとって、人を死から遠ざけるその全てである。では悪とはなにか、それは人を死に近づけるものである。人に、害を、悪をなされた者は、また一歩死に近づくからだ。なぜなら、不快という感情は死を忘れさせることなく、近づけるからだ。近い言葉で正義とはなにか、それは善の中にあり、その一部であるべきものである。

仮に、死を超越したものがあるとする。死を恐れず、受け入れた者である。彼らはなんのために生きるのか、当然、死から遠ざかるためである。

では、ここでいう死とはなにか。それは、未知である。なぜ未だ知らないのに、遠ざけようとするのか。それは、人はそれを回避するように設定されているからである。仮に、その未知の先に幸福というものがある、と信じる者がいたとする。彼は喜び勇んで死ぬだろう。なぜなら、本能的な死への恐れがまだ見ぬ幸福への期待が上回ったからだ。たとえそれが偽りの希望だとしても、それは彼は幸福だったといえるだろう。

幸福とはなにか、死を遠ざける全てである。善と定義は同じであるが、善が他者に影響するに対し、幸福は個人のものである。

この世界でなにをすべきか、それは死から遠ざかるための手段をつくすことである。

 

ロンドンの夜景を眺めながら。テツ